災害対策の備忘録

いざというときのための災害対策のまとめ

帰宅難民の記憶

time 2016/04/20

帰宅難民の記憶

東日本大震災の時に、都内にいた私の帰宅難民としての経験です。

 

おそらく同じような経験をした方がたくさんいるかとおもいますが、あくまでも備忘録として、自分の記憶を書き留めておきます。

 

東日本大震災の発生時、わたしは、次の打ち合わせまでの時間をつぶすため、四谷見附交差点付近の小さなビルの1Fで、コーヒーを飲みながらパソコンで事務作業をしていました。

 

ゴーっという地鳴りのような音が聞こえたかと思うと同時に大きな揺れを感じ取り、とっさに「やばい!」と声を出していました。店内のグラスなどが落ちて割れるなどしたので、状況把握のために外にでて上を見上げたら、ビルや信号機が大きく揺れ、ビルの看板がガタガタと音をたてていました。

※今思うと、外に出ること自体が危険でした。

 

ビルの屋上にある大きな広告看板が落ちてきそうなほどの揺れ。

 

まるで映画の世界。

 

そして、足元から揺れてくる感じは、まさに海の上にいるような感覚でした。

 

揺れが収まったあと、家族にすぐに電話しましたが、携帯電話会社の発信規制なのか、通話中の「ツー・ツー」という音で連絡がつかず。家族と連絡がついたのは1時間ほどしてからでした。

 

まずは、打ち合わせ先のビル内にいき、身の安全を確保しつつ、何度となく揺れる大きな余震で、家族は大丈夫か、会社の仲間は安全か、宮城県の担当取引先の状況は?自分の家はどうなっているか、といった不安を抑えるのに必死でした。

 

その後、テレビから飛び込んできた、津波の映像。わたしがみたのは、大きな船が転倒している衝撃的な映像でした。

 

大変な状況が起きていることを理解しつつ、家族の安全を確認しながらの仕事。

 

いま考えると、仕事なんかしている場合ではなかったんですけどね。。。

 

取引先の方々といっしょに、地震が起きると机の下に隠れ、また打ち合わせ。

 

そうやって2、3時間たったころでしょうか。

 

帰宅方法を考えなくてはいけない時間になってきました。

 

すでに電車は止まっており、駅構内は大混乱していることは分かっていました。今いる場所から家までの距離を考えると50kmはあり、徒歩で帰るにはすこし厳しい距離。

 

また、道路は大渋滞し、バスやタクシー乗り場は長蛇の列。

 

ということで、帰宅できないことを覚悟し、安全が確保でき、寒さをしのげて、時間がつぶせる場所を探すことに。

 

いま考えれば、トイレや自動販売機、コンビニなどが近くにあることもとても重要だったと思います。

 

都内ですから、商業施設や大きなビルはたくさんあります。そのなかで、開放してくれそうな建物を予想し、取り急ぎ、ホテルのロビーにいってみることにしました。

 

 

すでに何人かの方がホテルのロビーの椅子で待機している状況でしたが、私もホテルのロビーのはじっこで待機させてもらいつつ、仕事関係の方や家族と連絡を取り、時間が過ぎていきます。

 

いつしか夜になり、ホテルから椅子と毛布が配られ、夜通しで暖房をつけていただけるとのこと。

 

とてもありがたい対応でした。

 

それでも、やはり、床からの冷気は体温を奪います。

 

3月のまだ冷えるじきだったこともあり、低体温症なども怖くなってきますので、やはり、下に段ボールを敷くなどの対応が必要だということを痛感しました。

 

このたった1日の帰宅難民生活でしたが、困ったことがありました。

 

情報をえるための携帯機器の充電です。

 

仕事の電話が鳴りやまず、携帯の充電はすぐになくなります。

 

ホテルにあった有料の携帯充電機を、多くの帰宅難民の方が利用しているので、順番待ちをしながら、利用しました。

 

一晩で何千円利用したでしょうか。

 

本社が東北地方にあったため、本社のメンバーや取引先と連絡の必要性にせまられていましたので、たくさん充電が必要でした。

この間、情報らしい情報は、携帯端末からの一部の情報のみ。やはり正確に状況把握することの重要性を感じました。今の時代なら、ツイッターやフェイスブックなどのSNSから有益な情報を得ることができますが、当時はそこまでSNSは流行っていなかったので、情報を得る手段にはなっていなかったように思います。

 

そして、ほとんど一睡もせずに過ごし、翌朝、なんとか動きはじめた電車に乗りながら帰宅。

 

帰宅途中の車窓から見る景色は、見慣れた景色で、しかも晴れ晴れしていながらも、どこか異様に感じました。

 

よく見ると、窓が割れていたり、屋根瓦が崩れ落ちている家も。

 

帰宅後、家族に話をきくと、近所の家は、液状化現象で住宅が傾き、電気や水道などのライフラインも寸断された状態。

 

地震が起きたときの状況を家族に訊くと、骨折して車いすで生活していた息子は、学校の教室に一人取り残されてシクシクと教室で泣いていたとのこと。

 

足に軽度の障害を抱えている学校の担任の先生も、パニック状態で皆を外に出すのに必死で、息子が車いすで生活していることを忘れてしまっていたとのことでした。

 

車を運転していた妻は、運転中に揺れを感じ、まっすぐに運転できなかったため、車道に止まって揺れが収まるのを待ったと言います。

 

テレビでは多くの津波による被害が映し出され、さらには、福島第一原子力発電所の危機的な状況を知りました。

 

この時、日本という国が、四方八方を海に囲まれ、しかも日本列島のまわりには4つものプレートがぶつかりあっていて、世界的にも地震が多い災害大国であることに改めて気づかされたのでした。


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